生きてるよ

前に記事を書いたの5年以上前でした、お久しぶりです

 

5年前のわたしへ

安心して、無事に就職して働いて、毎日なんとなく過ごしつつも5年経ったよ

仕事は、1年目に配属された部署がいろんな意味でハードで、辞めようかなとも思っていたけど、私はほんとにツイていて、またも手を差し伸べてもらえて、部署を異動して、今じゃ「ここで働かせてもらえる間は頑張ろう」と思いながら、お給料をもらってます

”どこで”働くかじゃなくて”誰と”働くか、これかもしれないなぁと思ったけど、これは仕事じゃなくても言えそうだよね

プライベートは、相変わらずひとりで気ままに過ごしてて、ひとりお付き合いさせてもらったけど、結局1年でさよならしました

友達は増えてないよ…むしろ減っちゃったかな…ごめんね

まあ、そんな感じ!

昔の記事読んだけどむずかしいことばっか考えてて生きにくそうだね、でも、書いててくれてありがとう、わたしを形づくる(?)ものがそこにあってよかったな

 

また、いろいろ振り返ったり、考えたりしては日記のように残そうかなと思ったので、ちょっとずつ書いていこうかな

 

放置しすぎてやばいどころの話じゃない!

おはようこんにちはこんばんは

お久しぶりすぎてあいさつの仕方も忘れてます  最終の記事、なんと1年前でした なんと! 

 

この前、21歳になりました もう成人して1年過ぎたんですね はやい

20歳、派手なことはなかったですが地味に忙しくて楽しい毎日でした

いろいろあったんですほんと これからしばらく20歳の振り返りとしてぽつぽつと記事でも書いていこうっかなあと考えてます

で、とりあえず1年前何書いてたんだと思って記事を読み返したら 懐かしすぎる実家に帰ってお味噌汁飲むときみたいな感情になる(?)記事あったんでこれの続きじゃないけど これに対する今のわたしの気持ちを書こうかなって

 hatenya0221.hatenablog.com

朝起きない!学校行かない!不登校

とある教授に「不登校でした」と話したことがきっかけで書いた記事です

20歳、大学3年生のわたしにとって一番とも言えるほど大きかった出来事は、ある人に出会ったことです 大学の助教授なんですけど、3年になって始めて教わる先生でした 

 

この助教に、「高校の時はほんとに学校行ってなくて… 起きれなくて大学の授業出れないことは今もありますけど」 と話したときに「授業に出れないのは起きれないのが問題じゃないでしょ」とさらっと返されたことがありました

 

起きれないことが問題じゃない 最初言われた時、わたしは???ってなりました

「起きて、授業の途中からでも間に合うなら出ればいい。間に合わないなら午後からでも来ればいい。起きて、その後の問題でしょ?」

いや、確かに!というより、それでしかないんですが… 起きて、学校に行けばいいって話なだけなんですけど

高校時代からこの先生のこの言葉を聞くまで、わたしの思考回路は

起きた→間に合わない→もう行かない

この超完結型完璧人間タイプだったわけです 間に合わないならもうおしまいや

でも、この先生の思考回路は

起きた→間に合わない→途中からだけど間に合う→準備しよ

間に合うに切り替えて準備始めれるわけですよ

多分、世の中この間に合うに切り替えることができる思考回路の人間が多いと思いますが、不登校になりやすい子はおそらくこっちの回路じゃないんです

不登校になりやすい子って、完璧主義が多いって言われてます

もしかしたら、完璧主義人間だったわたしと同じような思考回路で「最初に間に合わないなら間に合わない」なのかもしれません(実際、わたしは先生に言われるまで間に合うに切り替える思考回路を全く持っていなかった…)

 

お昼の12時に目覚めてしまった高校生のわたしに、もし、今のわたしが声をかけれるなら「5限から、5限の途中からでも大丈夫だから準備しよう」って言ってあげたい

上に張り付けた記事では、どうして学校に行きたくないのかも分からないけど行きたくない気持ちだけが残った当時を振り返っています

さらに時間が経った今、考え直してみると、完璧を求めてしまうからこそ 朝から行けない、授業に最初から出席できないことに対する劣等感が強く、それから逃げてしまいたい気持ちに支配されていたのかもしれません

 

ここまで書いてきたんですけど、振り返ってみて、わたしが躓いた原因も、躓いたあとそのまま転んでしまった原因もやっぱり完璧主義がコントロールできなかったことだなと痛感してます

完璧主義って悪いことじゃないんですよ 長所と短所もいってみれば裏と表じゃないですか 心配性って長所としてなら入念に準備ができる、短所としてなら考えすぎて行動に移せない みたいな 時と場合にうまく匙加減出来てこそかなって思います

完璧主義をうまく調整できるようになるには難しそうですよね だって匙加減すら許さないような完璧を求めてしまうわけですから

自分のなかで匙加減が許されないなら、周りの人のスプーンも合わせて考えてみるといいのかな 意外とみんな摺り切り一杯じゃないんですよ 意外とみんな小さじ1/2みたいな感じで適当にやってるから

今回の先生の話は、間に合うにシフトチェンジできる思考回路っていう話でしたけど、「小さじ1/2くらいの時間でも出席できる=間に合う」ってことです(?)

 

当たり前のことなんですが、思考回路がわたしと先生では違ってました もっと言えば思考回路の始まりになる考え方が違ってたわけです

わたしは最初から出れないならもう出ないっていう摺り切り一杯の考え方 一方、先生は、途中からでもオッケー!っていう完璧でなくても1/2でもいいという考え方だったわけです フレキシブル~!ナイス匙加減!(※完璧主義からみた感想です)

 

思考回路って、いわゆる"道"らしいんですよ 

思考の道って言うんですかね 自分の思考が、踏みならした道が思考回路

脳みそが草むらだと考えると、思考回路はその草むらの中の獣道って考えると分かりやすいかもです

じゃあもしも、今回の話で出てきた「間に合うに切り替えることができる」思考回路を自分も欲しい!ってなったらどうすればいいのか

その思考が歩くための道を新しくつくらないといけません つまり、何もない草むらを歩きまくって踏みならさないといけない

新しい思考回路を得るためには、最初のうちは無理やりその思考へと持っていって、だんだん踏みならされると、思考は習慣化して思考回路として成立する

だから、最初のうちは 「起きた→間に合わない→けど、午後からなら間に合う→準備しよ」っていう、無理やり間に合うに思考をこじつけていかないといけないわけです 楽じゃないね…

わたしも先生に言われたあの時は目からうろこ状態だったのですが、なるべく間に合うっていう思考へと切り替えて準備するように頑張ってます 

行かない後悔やら罪悪感やら劣等感やらでジメジメするより、3時間くらいでも行って勉強した方が気持ちが楽なんですよね あ~今日もわたし活動したっていう成果と達成感(笑)

 

ここまで書いたんですが、いまいちまとまりのないまま わたしの力が尽きそうです ごめんなさい 

 

完璧主義と匙加減を書いてて、そういえば「諦め」について気持ちをまとめておきたいことがあったのも思い出したので、それについても今度書きたいと思います

 

前の不登校記事に比べて、すごい前向きな記事になりました

少しずつですが、あの苦しかった時期を糧にできるような余裕が出来てきたのかなとも思います 成長できてるといい

 

おしまい

 

タイトル考えるのが苦手です

どうもです

もう2月も残すとところ1週間ほどになってしまい、はてな放置しすぎてやばい 何か書こうと思いやってきました

 

2月の初めの1週間は大学のテスト期間でした すべて結果も発表され、無事進級できそうでほっとしています

テストが終わってすぐに1年生の実習にお手伝いボランティアとして参加してきました 後輩たちを見ると1年前の自分が懐かしく感じて、1年でも成長するもんだと自分のちょっとした成長を実感してすごく充実してた気がします

 

実習も終わって実家に一旦帰り、成人式の後撮りをしてきました 前回の記事で撮るかどうしようか悩んでいることを書いたのですが、母がいろいろ手配をしてくれてきれいな写真で残ることとなりました 誕生日に合わせて撮影の日程を組んでくれたので20歳になる日に振袖を着ることができて、成人を実感しました 撮影の後に近くに住んでる親戚とか、昔お世話になった近所の方々にあいさつに行ってたくさんお祝いの言葉をいただいたのが胸に沁みました

ここ最近の日記ですねこれは!

 

 

なんか書くことあるかなあって考えてたんですが、試験期間に感じたことで少し書こうと思います

完璧主義をやめた話

先の記事で書いてますが、高校時代は不登校でした 完璧主義から始まったものだと自分では思っています

なんかよく聞きますよね 完璧主義の人こそ鬱になりやすい!みたいな わたしは自分を鬱だと思いたくなかったので、完璧主義の人は自分で自分をつぶしやすいって考えてます

完璧主義ってどの完璧が完璧なんでしょうかね

人はそれぞれ完璧のハードルの高さが違うと思うんですよね わたしの完璧7くらいがもしかしたら周りの人の10かもしれないし その逆だっていくらでもあるわけです

自分の達成すべきハードル、ここでは10だとして、それが達成できて 終わった~!ってなることを考えてみてください

自分の7が他人の10だった場合、自分は10まで完璧に終わらせるために周りの人より3つ分頑張るわけです知らないうちに これが周りの10と同じスピードで自分の10が達成できれば完璧主義は辛いものにならないわけです でも多少スピードがあるだけじゃ大抵の人は3つ分終わらせるために時間がより多くかかると思うんです

この余計にかかってしまう時間とやらなくちゃいけない事の量は反比例的ではないでしょうか

時間は無くなるのにやるべき事は増えていく なのに完璧主義は自分の7くらいでみんなと同じ程度ということになかなか気づけない場合、全部を10まで持ち上げないとと思って自分の時間をさらに費やすわけです 休みに使うべき時間がなくなっていっちゃうわけですね

時間とやることの量が逆転しちゃってやることに押しつぶされるともうアウトです

完璧主義じゃない人は「時間がない!とりあえずやってしまおう!」って感じで6くらいで打ち切るかもしれません おそらく周りの人に頼ればその6も8くらいまでは引き上げることができるでしょう 普通はそんな感じでいいんです 学校とか特に課題なんてまずは提出して及第点がもらえればいいんです多分 高校時代は課題を提出というよりまず出席しないとという生徒だったのでそこら辺の学生生活がよく分かりませんが…

でも完璧主義って6で切り上げるとかできないんですよね10までしないと気持ち悪くて しかも周りの人に頼るのがすっごい苦手な人が多いと思います だから余計、自分の力で10まで上げようとして時間がかかるんだと思います

病院の先生にも もっと周りのみんなに頼ったら?って言われたのを覚えてます 課題見せてとか ここの問題わからないから教えてほしいとか もしかしたら周りのみんなはそうやって乗り切ってたのかもしれないですね

わたしは高校時代、英語の授業が嫌いで嫌いでたまりませんでした

何が嫌だったかというと、指名されたら立って問題に答えるという授業スタイルがもう本当にダメでした 完璧主義からしたら指名されて答えられないのもストレスになるのかもしれません 今考えれば間違えたって何も悪いことなんてないんですけどね どうしても自分の中で許せなかったんでしょうね あまりにも授業に出ないので困った担任が、英語の担当教師にわたしを指名しないでくれと頼みこんでくれたそうで甘ちゃんな生徒だったと思います本当に

甘ちゃん生徒な対応をしてもらったのも、指名されて答えられないとすごい呼吸がし辛くなったり、そのあとすぐにぽろぽろ泣いちゃうようになったのが原因だったでしょう その頃はだいぶ精神がやられていたので少しでも自分の発言が否定されたりすると自分を全否定みたいなとんでもない被害妄想が働いて、まともに授業を受けられる状態じゃなかったんですね 改めて考えるとよく卒業できたなと思うくらいです

周りのみんなは授業前に問題の答え合わせとか、分からない問題を一緒に考えたりとかしてたんでしょうし、分からないときは適当に答えたりしてたんですが、どうにもそこでまわりに頼りきれなかったのがさらに悪化させていく原因になったかもしれませんね

大学に入ってからは、高校時代のわたしを知る人たちから頑張りすぎちゃだめだよと声をかけられるようになりました あと、大学では自分じゃ到底かなわないような努力家な友人ができたおかげで、自分と他人の完璧のハードルは高さが違うということにもようやく気が付きました さらにその友人はわたしの高校時代の荒れっぷりに理解を示してくれる方だったので、思う存分頼らせてもらっています

わたしにとってその友人の10はわたしの5だと思います でもその10にたどり着くことはほぼ不可能だと思うくらい友人の努力は恐ろしいものです でももしかしたらその友人からしたら彼女自身も彼女の10ではないかもしれませんね

完璧ってそういうものだと思います 自分一人で達成とかほぼ無理だし、他人と自分の完璧のハードルは高さが違います 難しいけどうまく生きるには力を抜くのが一番なんだろうなって 完璧ってここぞという時にだけしっかり達成できればそれで完璧だと思います

手を抜けるときは適当に抜く、抜いちゃだめだけどどうしても時間足りないとか限界を感じたら周りの人に助けてもらって10が無理なら8とか9でもいいっていう心持ちでいるようになっていくらか気持ちが軽くなったのは間違いないです 学生の間はこんな感じでもいいのかなって思います もし社会に出た後に壁にぶち当たったらそのときはその時です 高校時代の自分ではこんな気楽な考えには至らなかっただろうなと感じます

テスト勉強中も友人に助けてもらって、ふと感じたことでした

おしまい

明けましておめでとうございます(半月遅れ)

なんと2017年になってもう15日が経ったなんて恐ろしいものです あと少しで迎えたばかりの新年の12分の1が終わる……気が早いですね まあまあ落ち着いて

 

なんか年末から先週末まで休みなしに動き回っていたらここにきて風邪をこじらせまして 普段ひっきーな人間が頑張って動くと後々痛い目見ることになるのを実感してます

なんでそんなにバタバタだったかというと、祖父母の家に帰省したり、正月早々バイト戦士したり、成人式同窓会があったり、合間に大学で講義、実習、レポート よく生きてたなひっきー! 風邪が代償なんてありがたいもんだぜ

 

そうです、わたし今年新成人です

成人式と同窓会でずっと会っていなかったような人たちとも話せたり、前日に同窓会で会った人たちとみんなで写真撮ったり、瞬間的に時間が過ぎていって純粋に楽しかったです

成人式の後は中学の同窓会だったので急いで準備してパーティー会場に行って、ほんと成人の日に全然親と話せなかったのが心残りだと感じてます 振袖も着させてくれて、そのためにいろいろ手配してくれてた親にほとんど何も言えず終いで

成人式同窓会の話なんて別にどうだっていいんですよそんな個人的過ぎる内輪な話

別に日記としてここに残すこともないだろう みんなと話しすぎて次の日から喉が死んでたくらい

 

わたし、本当に写真が嫌いなので 振袖の前撮りとか後撮りもしないでいいや~ってことで このまま成人式当日の素人写真のみが残ることになりそうなんですが、親からしたらこういう時の写真って記念に綺麗なものを残しておきたいと思うものなのでしょうか

母からは、あなたの好きにしなさい 後撮りしたいなら写真館にはお願いするけど って感じで言ってもらえてるんですけど

やっぱり綺麗な写真を残しておくべきかとわりと本気で悩んでる

 

もし、この記事に目を通してくださった方で、そういう成人式とかの特別な日(?)の写真について何かわたしに助言をくださるとかそういう方がいらっしゃいましたらぜひともよろしくお願いします…

 

新年1発目なんでね 今年の抱負とか書くべきなんでしょうけど有言不実行になったらあまりにもダサすぎて来年まで救われない気がしてしまうのでそういう志高い系はやめです

わたしのモットーはいつだって 「毎日死ねる」です

別にやばい奴じゃないです いつ死んでも大丈夫なくらい毎日しっかり生きるってことです 出来ることはその日のうちにやり残しは少なく 全然達成できなかった日の自己完結も大事ですよ

上の悩みと矛盾してるかもしれませんけど気にしちゃ負けです 

 

風邪のせいで鼻水地獄がしんどいのでここまでおしまい!

ひねくれた大学生が思うこと

こんばんは しばらくの間なにも書くことが出来てませんでした

この頃の秋っぽい気候に弱らされてしまい もともと精神が正常とは言い難いので、とても不健康じみた人間になっています 今日は久しぶりに思っていたように過ごせて気分がいいからなにか書こうと思ったんです もっとまともに生きたいと毎日思いますが出来てたら今頃は心身ともに健康でしょう悲しいかな

大学はほぼ毎日1限から講義や実習ですが、今週は1日も1限に出席しませんでした 恐ろしいことです

そんなことはどうでもいいよはやくタイトルのことに進もう

その前に、ひねくれるってよく聞くしわたしも自分のことをひねくれてるとか言うけどひねくれるってどういう状態だって思ったので調べました

Weblio類語辞書

類語辞典・シソーラス・対義語 - Weblio辞書類語辞典・シソーラス・対義語 - Weblio辞書

  

ひねくれたの同義語 - 類語辞典(シソーラス)

 

類語で見た方がニュアンスが分かるかなと思ったので

と、いうことで「捻くれた」思考回路の大学生が思うことを書きますね 非常に自己中心的な内容になりますということを予め書いておきます

 

世界が狭い人間はさみしい

ここの世界は物理的なものではなくて、いわゆる視野です

大学にいくと世の中にはたくさんの人間がいるなと感じるものです(小並感)

おそらく社会に出るともっといろんな人の波に打たれる(?)のでしょうが、大学も面白いものだと感じます

こんなこと言うなら自分は視野が広いか、いろいろ見てきたかと言われるとそうではないのは十分に自負してます でも、自分が精神を少しおかしくしてしまったおかげでいろんな世界に触れることができたとは思ってます

心が健康的すぎて世界が狭い人についてひとつ

精神が健康なのはおそらく生きていきやすいと思います わたしは健康じゃないので、想像です 健康な人も様々な苦労をされてると思いますそりゃもちろん 人間だれしもハードモードのときがあるでしょう

わたしの周りでは、人の感情を読み取れない人は心が健康的な人が多いかなと思います

基本的に人の感情で読み取りにくいのは圧倒的に後ろ向きの感情ではないでしょうか わたし自身は、ネガティブな感情はポジティブなそれと比べて他人と共有することが難しいと思いながら生活するようにしてます

 そうじゃないと、うつを発動してしまったときに理解してもらえないとヒステリーを起こしてしまいそうになるからです 防御線みたいなものかもしれません

でも、理解はできなくてもその感情に気付いて手を貸してくれる人もいるわけです ありがたいことにわたしの周りはそういう人が結構多くて、そのおかげでなんとか今まで生きてこられているんだと思います ありがとうございます

わたしもそうですが、負の感情が生まれてしまうとうまく消化できない人にとって恐ろしいのが、心が健康的な人だと思うのです

人間だれしもその人の”ものさし”というのがあると思うのですが、健康な人のものさしは、自分にとっては非常に怖いです そういう人たちのものさしのマイナスな感情の尺度が圧倒的に自分と違うと感じてしまうからです

わたしがうつ気味になった当初は、母はそのタイプだったと思います

「なにがそんなに悲しいの?」 とよく聞かれ、わたしも自分のナイーブな気持ちをうまく表現できないのでなんとなくと答えてましたが、その度に分からないと逆ギレのような態度を取られました それでも母は辛抱強くわたしと向き合ってくれたので、今ではそんなこともなくなりましたが、なんとなくとか分からないといった答えは未だに理解できないと言われます これが、ネガティブな感情が他の人には理解されないものだと自分で思っている大きな原因の一つだと思います

大学にもいたんですよ いろいろって言ったら逆ギレするような子が 大学で逆ギレされてヒステリーを起こしそうになりました

いつもは理解されないと開き直るのですが、あまりにも陥ってしまっていて自分も余裕がなさ過ぎたのがよくなかったです

陥ってるときは神経が異常に尖っているので些細なことでさらに感情がマイナスに走るのですが、その子はその神経をさらに逆なでするような態度をとってきたんです わたしが泣いていてもお構いなしにぐさぐさ刺してきたのにびっくりしました

この子は本当に理解がない子だ 今まで周りに健康な子しかいなかったんだろう とそのときは被害妄想じみたことを感じていました

もしかしたらその子は、そういう人の表情や感情を読み取れない上にネガティブな感情の種類が少ないのかもしれません

わたしも精神がおかしくなる前は素晴らしく健康な人間でした 昔のわたしは本当に人の気持ちに鈍感で最悪な事ばかりしていた気がします

その子がどんな人生を送ってきたのか知りませんが、あの子は今までの人生で挫折とかそういった経験があまりないのかもしれない、実際なんでもこなせるもんねと後で他の友人に言われました

他人との関わりは、その人の人生経験値が物を言うと思います

自分の感情とか、今まで関わってきた人たちの感情が大きく影響すると思っているわけです 自分の経験と、他人の経験をひっくるめてどれだけ経験値として自分に蓄えられるか

心が健康的な人は、おそらくその人自身が強い、自分が確立されてるのだろうと思います それは大事なのでしょうが、あまりにも世界が狭すぎる

わたしは心が不健康であるために毎日苦しんでいますけれど、逆にいろんな気持ちとぶつかれたし、いろんな人と関わることができたと感じています 

すこし大げさな表現ですが、他人の感情に気づけないことほど寂しいことはないと思います 感情の持ち主も相手もお互いフラストレーションだろうと感じます

でも、百発百中で相手の気持ちが分かる人もいないわけです

それでも、気持ちが分かった方が損することは少ないと思うわけです 難しいことですけど

書いてたら、わたしの中では 感情=世界(視野)ってなっているのだねと思いました

感情なしに動くことなんてほぼないでしょうし、人間だれしも感情に振り回されてると思ってるからそんな経路が出来上がってるのかもしれません 考えが偏りすぎ…

世界を広げるためには成功も大事でしょう でも失敗とか壁にぶち当たる方が世界の広さに気付けると思います そこでもしかしたらネガティブになりすぎて憂鬱な世界に飛び込んでしまうかもしれませんが!笑

 

つまりなにが言いたいかというと

みんな一回失敗やらなんやらして うつになって!

それで、今までの自分の世界がしょぼいものだったことに気づいて

 

いつかきちんと自分の思ってることをきれいに書けるようになりたいと思った

捻じれに捻じれたまとまりきらない内容だけど

おしまい!

 

 

 

不登校な生徒だったことを話します

どうもこんにちは

タイトルのままです この前、そういう出来事があり、当時を少し懐かしく思ったので書いてみようかと思います

先日、教授とお話をする機会があり、ふとそういう話題になったんです 友人と2人で伺っていたので2人で言ったんですよ

「私たち2人とも元不登校ですよ」

そしたら教授、驚いたような少し眉を寄せるような どういったらいいでしょうね… 一緒にいた友人はそのあと、打ち明けた後の先生の慌てた様子が可愛かったと言ってましたが、正直わたし自身は打ち明けた直後の先生の顔を見て、こういう大人ばっかだよなあ なんでそんな引いたような顔をあからさまにするかなあと思いました

その友人はわたしよりも歳が上なので、こういうことを打ち明けるのにも慣れていて、そういうリアクションもされ慣れているのかもしれません ですが、わたしはちょっと前まで不登校、大学でも皆勤なんてくそくらえ(?)人間なので、ガキの感情、意見としてここに書きます

不登校な子たちにもいろんな種類?原因?があると思うんですよ ここで一概には言えないのでわたしを例に不登校について書きたいと思います

わたしが不登校になった原因は簡単に言えば、完璧主義な人間だったから です

わたしが学校に行きたくないと思い始めたのは高校1年の2学期くらいからでした わたしのクラスは所謂 お勉強クラス 朝は7時半過ぎから授業(課外)が始まり、夕方は18時頃に授業(課外)が終わるというクラスでした 土曜日も午前中は学校、もしくは丸一日模試でしたね 他の高校がどうだったのかは知りませんがわたしの県の高校はこんな感じが多いらしいです

それに加えて、課題もそれなりに多かったんですね 終わらなかったら次の日からドミノ倒しにのように崩れていくと思ってたのでその日の課題は絶対その日にと思ってました まわりのみんなはどこかで手を抜きつつ消化していってたんだと思います でも、わたしにはそれができませんでした だって完璧にしなきゃダメな性格だったからです これまで終わらせないと寝られない、明日学校にいけない そんな感じで高校1年生で12時越えての就寝が当たり前になってました 今考えると寝てないことがおかしくなってしまった一番大きな原因かもしれません

最初は、朝の7時半から行われる英単語テストの勉強をしていないことが原因でした お腹が痛い、頭が痛い 本当にそうであるときもあれば仮病の時もありました 単語テストは合格点に達しなかったら、後日口頭テストがあたったんです 今まで完璧主義のデキル子ちゃんだったわたしはそれが本当に嫌だった 口頭テスト自体も嫌でしたがそれの勉強までする体力気力が残ってなかった いろいろな気持ちが重なって単語テスト自体を受けずに逃げ切ろうと最悪な方向に走ってしまったのでした 

それからは小テストがあると思うとストレスからか朝が起きられなくなりました

目は覚めても起き上がりたくない やることやってないから学校に行きたくない 最初はそんな気持ちがあったんですが、まともに学校に行けなくなって1年くらいで なんで行きたくないのかも分からない どうして自分は学校に行けないのかも分からない なんでか分からないけどとりあえず行きたくない となりました ここまでくるとクラスで会える友達みんながいくら大好きでも朝は体が動かないようになりました

さらにいけなかったのは わたしは負けず嫌いがすごく強いし、自尊心が必要以上に高かった 準備もできてない負け戦に、頭を下げて完敗ですとかを言えたなら、まだましだったかもしれません

なんで起きられないの なんで学校に行かないの 最初のうちは母親にふとんから引きずり出され朝から大騒ぎして泣いて ふてくされて部屋にこもる そんな感じが続いてました 行けなくなってきた初めのうちに 学校の課題が終わってなくて行きたくないというのを親や先生に言っていたらもっともっとましになっていたかもしれません 友達同士では、きついねという話はずっと前からしていたし、それでもみんな何とか付いていってたので、そんな弱音は吐いちゃいけないと思ってました 

まだ、行きたくない気持ちが自分で分かってるうちになにかしら動いていれば、わたしは高校生活をああやって棒に振ってしまうようなこともなかったのかもしれない あの時ちゃんとしてれば今はもっと違う環境で頑張れていたのかもしれない そんなことを考えることもありますがもう終わってしまった話ですので考えるだけ虚しいのです

授業の出席状態が悪すぎて、この科目に関してはあと3回休んだら単位がもらえないから進級できないと2年の1月ごろに言われたりしました 留年なんてわたしの中のご立派な自尊心さまが許すわけもないので泣きながら登校していました

2年生の2学期から3年生の1学期が一番学校に行きたくない気持ちが強かったと思います 2年生は何をしたのか記憶があまりありません 修学旅行は楽しかったです 学校が嫌なだけでクラスのみんなは大好きでした お勉強クラスがきついなら下のクラスに落ちる?という話を担任の先生からもされましたが、クラスのみんなと離れるなら高校に行く意味もないと感じるくらいでしたし、定期テストと模試では及第点は取れていたのでお勉強クラスにいさせてくれました

3年になって、大学受験はどうするのかという話が出てきましたが、わたしはあんなに高校に行ってもいないのに大学には絶対進学すると言っていました 今考えると本当に何を考えてるのか分からない生徒だっただろうと思います

将来はお金がもらえる仕事に就きたいとずっと考えてましたし、なりたい職業もありました 国家資格の職業ですので、資格を取るために大学に行こうと考えていました あとは何度も出てきますが自尊心ちゃんのせいですかね 高卒が最終学歴なんて嫌だっていうことです ほんとによく分からない子供ですし、親からもなにを考えてるのか分からないと言われ続けています

父親はあまりなにも言ってきませんでしたが、ある時一度だけ全く関係のない話で怒られたときに、朝もろくに起きれない奴がと言い放たれたことがありました そのときは自分でも朝がどうしても起きられないことに関して、いよいよ自分はダメ人間だくそだ生きてても呼吸するだけだ まで自分を卑下していたのでその一言が深く刺さり、ヒステリーを起こしました 家族も相当驚いたようで、それからは特にわたしの機嫌がよくないときは腫れ物に触るような態度になりました

あまりにも感情の浮き沈みが激しく、自分でも精神病のなにかだろうとは思ってました でも、自分ではどうすることもできないので親に内緒で心療内科に予約を取ろうとしましたが、電話してみたら2か月先まで予約でいっぱいですと言われ、すごく気分が鬱だった私は見放された気分になって心療内科にはもう行かないやと思ったのでした

3年の夏に、いよいよ受験も無理なのではと自分も周囲も感じ始めていた時でした 父親がいろんなパンフレットを持って帰ってきました 知り合いのお医者さまに相談をしていたようで この病気かもしれないからと病院を勧めてくださったようでした

自分では わりかし元気なうつ病かなと意味不明なことを思っていたのですが パンフレットには「起立性調節障害」と書いてありました 小児科がいいと言われ、早速近所の小児科に行きました

そこの先生は話を聞くと、とりあえずがんばって受験を乗り切ろうということで、薬物治療をメインに、あとは勉強をしないとということで、知り合いのそういうお子さんが通っていた塾まで紹介してくださいました

学校には診断書を提出して、担任の先生がわたしのために科目担当の先生方に頭を下げてくださっていたらしく、本当に申し訳ない生徒だったと思います

塾に入塾して、勉強は塾メインで進めていました 2年生の間は特に空白の部分が多かったため、まずはそこを埋めようとカリキュラムを組んでもらいました

3年の夏の終わりからわたしは少しずつそれらしい生活に戻っていきました 朝は相変わらずきついので起きて薬を飲んだらとりあえず学校に行き、1限はほぼ寝ていました 学校が終わってから塾に行って、授業と自習、帰ったらごはんとお風呂を済ましてすぐに寝るという生活だったかなと思います

当時も思っていましたが、わたしは本当に周囲の人に恵まれていると思います

なんだかんだ今は大学生活を送れているので、教授にもそんな話を笑いながら打ち明けられたのだと思いますが、不登校と聞いていいイメージを持たれることはないのです

表現は本当に適切でないと思いますが、 不登校=出来の悪い子 というイメージは多いのではないかと感じます わたしが思うにむしろその逆で、頑張ろうとしすぎる子ほど一歩踏み外してしまうと、間違った道に進んでしまいがちなのかなと思います

不登校の子にになんて声をかけたらいいかな? あの子が最近学校に行けてないから声をかけてあげて、なんてよく言われたりもしますが、不登校の自分から言わせればそんなの不登校仲間でも声かけてあげれないやと思います 最初に言いましたが不登校は一概に言えないと思うんです わたしの場合は高校の時に目標があって、それのためになんとか這い上がったという感じでした でも目標がない人だってたくさんいるわけです 不登校の抜け道(?)なんて人それぞれです 

じゃあなにがいいかなって、話させることがいいのではないかなあとか思います わたしが一気に動き出せたのは、親、先生、お医者さん、塾の先生、たくさんの人に話を聞いてもらって、わたしは進学したいんだって知ってもらったのが大きかったかなと思います 基本的に、周囲の人間は不登校はやめさせたいと思ってるので、進学したい、この職業に就きたいって言ったらすごい動いてくださったと思います たくさん支えてもらっておきながらこの言い方はあまりにも失礼すぎますが

そのときに教授みたいなあからさまにいろんな感情を出すのはやめてほしいなと思います そういう子ほど、人の表情に敏感であったりするものです 不登校だったことに劣等感を覚えていないわけではないですし、この記事を書きながらたくさんティッシュも使いました 

やりたいことがないっていうんだったら、とりあえずいろいろ経験させてあげるといいと思います 学校にも行ってなくて家にずっといるだけとかそりゃ世界狭すぎる なにも見つかるわけないよと思いますがそれは人それぞれ思うことがあるかもしれないので分かりませんね

結局周りがどれだけ外から刺激を与えても、その子の中にまで響かないことは多いと思うんです 刺激がただのストレスとして受け取られる場合もあるだろうし

結局ここまで書いて何が言いたかったのかはっきりしない4000字になってしまいました

こんな不登校もいるんだなくらいでいいです またこんなことをこの時思ってましたとか考えたときがあったら書きます

おしまい

 

 

 

何を書こうか

はいこんにちは

土曜日からまたばたばたしてたらもう水曜日ですね

ばたばたと言ってもここを開いて何か書くことができるようなスキマ時間はたくさんあるのだと思うのですけど、最近気になってた本を読み始めまして 結構一筋縄ではいかないような少し難しい本なので読むのに時間がかかるというか果たして読破できるのか 上下巻を無事に読み終わったらここに感想でも書こうかなと最初は思ってたのですが、あまりにも奇怪すぎて自分の中で感想に持ち込めるまで消化しきれるかわからなくなってきました

なんだか時間を持て余してる時の読書より、忙しい合間にちょこちょこ読み進める方が一気にその世界にのめりこめるような気がして好きかもしれないと感じてきました

今読んでる本では、わりと冒頭の方で出てきたある人物を描写している表現がすごく好きで何回も読み直しました 外見の特徴をただつらつらと書いているだけの文なのですが言葉が綺麗で読んでてもドキッとしましたね 読み終わって感想も書けそうだったらそんなことももう少ししっかり書いてみます

なんで本読もうかと思い始めたのかというと、1年くらい熱心になっていた趣味的なものに急に冷めてしまったのと、読書の秋ってことだからです

飽き性なのでいろんな物事が続いた試しがなかなかないのですが、今回もやっぱり駄目だったなあって感じです 基本的にハマりだしたら「いつ頃冷めるかなあ…」って考えてしまうので その時点で冷める前提なのがまず良くない

今回は、言ってみればコスパの悪い趣味 正直早く正気に戻ってお金大事に使いたいとも思ってたので、よかったかなあと思ってます だったらもとからハマらなければよいのでは?ってなりますけど、なぜかそこがうまく制御できないんですよね 人間そんなもんです 精神擦り減らしながらお金はたいて幸福感得るってすごいプラマイゼロむしろマイナスみたいな充実感でしかない そこらへんはずっと最初から思っていたので人の心は複雑なものです(?)

気持ちが落ち着いてしまって心が穏やかになったので他のことしようと思い始め、本を読んだり、こうやって言葉にしてみたりを始めたってわけです

おしまい!